昭和43年10月10日 月次祭における教話   (信太郎)



 昔、仁徳天皇というお方は、ある時、町をご覧になっておりますと、夕方でもあると言うのに、どこにも夕餉の用意と言うですかね。あれ、煙がたっておらなければならんのが、非常にその少なかったと。それをご覧になって、貧家の方にお尋ねになりますと、町中の者が、都中の者が大変な高い税金のために難儀をして。その、いわば夕餉の煙もたち兼ねるほどに難儀をしておりますという事をお聞きになって、大変悲しく思われました。そして三年間、その税金をお取りにならなかった。ね。おかげで、だいぶん、その町も活気付いて参りました。それから、また三年間、税金をお取りになるほどに、良い政治をなさったという話が残っておりますですね。私も仁徳天皇様じゃないけれども、良く思うんですね。特にあの、デパートの屋上なんかに上がりますと、例えば久留米なら久留米全市がこう、目下に眺められます。もう、自動車が沢山こう通っております。もう、本当に上から見ておると、もう、あの自動車がいつ衝突するだろうかと思いますと、やはり、思わず祈らなければおられません。沢山の人家が目下に、こう広がって参りますよ。あの一軒一軒の営みの中に、どのような営みがなされて行っておるであろうか。親であり、子でありながら、本当に親子が円満に行っておるだろうか。夫婦でありながら、夫婦仲睦まじゅう行っておるであろうか。世の中のいわば、その営みというものが本当に信心を頂いて。信心は家庭に不和の無きが元と仰るが。そういう円満な家庭が営まれておるだろうかというような事を、(ちょっと?ずっと?つと?)感じる事がございます。ね。沢山な家がございます。ね。その沢山な、あの、家の一軒一軒がどのような生活状態であろうか。ね。難儀、そしてまたは難儀ではない家。いわゆる、沢山なお金を持って、物を持って、まあ、贅沢三昧に暮しておるという人達も沢山ありましょうけれども。果たして、持っておるからだけじゃない。金があるからだけじゃない。ね。幸せな営みというものは、ね、そういうところから生まれて来るのではない。ね。信心させて頂く者は、先ず自分の心の中に幸せを感じ取らせてもらえれるおかげを頂き。それが、一家の上に、ね、どのように現されて行くか。そこで、家庭勢を揃えた信心をさせてもろうて。家庭の中に信心生活が打ち立てられて行く。ね。それは、様々な問題は、各家庭にないはずがない。ね。難儀がないはずがない。けれども、そういう難儀の中に、お互いがその難儀をどう信心で対処しておるか、対決しておるか、それに取り組んでおるか。こう思うて参りますと、信心があっても、なかなかね、それが思わしゅう行っていない所も沢山あるのじゃないでしょうか。ね。今日、ここの少年少女会が、ここ筑水連合会で、何て言うんでしょうかね。信心実習会といったような事が思い立たれまして、こっからも三十名近くの方達がおかげを頂きました。まだ開教一年と言うのに、もうやはり、三十名余りの人達が、皆あの、ボーイスカウトのあの、少年少女会服を身にまといまして。で、ここから朝、バスが迎えに来てくれましたから、一緒に参りました。何でもこの揃うておるという事は有り難い事ですね。今日も一日、おかげで振りそうなお天気の中におかげを頂いてから、一同元気で、大変楽しかったと言うて、まあ、帰ってまりいました。話を聞かせて頂いておりますと、大変楽しかった。けれども、不愉快な事もあったと言うて、このように話しておるんです。ね。バスの中で、何処どこの教会、何処どこの教会と一緒じゃった。大きな教会だけれども、何名かしか行ってなかった。もう、とにかくもう、何かずっと腹かいちゃござる。子供達にまで当て散らかされる。ね。何かこう、歌でも歌うて行きよると喧しかちゅうような顔をしてある。して、歌わんならん時に、まあだ合楽は一年ですから、色々少年少女会の様々な歌がございますけれども、その全部がまだ覚えられていない訳なん。で、ある何かの歌が分からなかったら、合楽はそのくらいな歌も知らんかといったような、(             )ち言わっしゃった。だから、もう自動車の中ではあんまり愉快じゃなかったけれども、まあ、あちらへ行っては大変愉快であった。けれども、私は思いましたですね。そういうような事がね、どういう雰囲気の、だから、そういう雰囲気が生まれて来るか、どういう事の中からそういう事になって来るのか。ね。まあ、よう言やあ、ね、例えばバス一台の中に、ね、親に信心を頂く者ばっかりが、もう、何時間かぐらいあっても、一家のように、仲睦まじゅう行けれるはずなん。ね。それが、どうしてそういうような事に、まあ、雰囲気が生まれて来るのだろうか。四神様の御教えの中に、信心させて頂いておかげを受けるという事は、徳を受けるという事は、どういう信心をさせて頂いたなら、おかげが受けれ、徳が受けられるでしょうかと言うて、お伺いをさせてもらった時に四神様が仰ったと。ね。憎い、可愛い、惜しい、欲しい、妬ましいを取ればおかげじゃと仰った。五つ仰った。憎い、可愛い、ね。惜しい、欲しい、ね、妬ましい。ね。そういう心を取れば、お徳が受けられると仰った。ね。まあ、自分の所は何十年の教会だけれども、少年少女会が出けてもいない。また、あの、事実、参加してない教会も沢山あります。ようやく参加が出けたかと言うても、借り集めてその出けたのであって、その、まあ、何人かそれも先生方が指差して行かれるといったような教会もあるらしい。ここでは、別に先生が誰も行く訳でもない。ただ、リーダーの方達が3~4人ついて参りました。ね。ほれで、もう、実にその愉快にやって行く。だから、ははあ、人間だから、やっぱりそこに妬ましいというような心が起こるのではなかろうか。よく煎じ詰めると、たったそういうような心が、そういうムットリしておらなければならなかったり、イライラしておらなければならなかったりするような結果になるのじゃなかろうか。ね。憎い、ね、可愛い、惜しい、欲しい。そういう一つひとつが、いわば世の中だけではない。ね。自分の家庭、いや、だけではない、バスの中にまで、そういう雰囲気を作って行くのでございます。ね。信心させて頂く者が、もうよくよく、ここんところをですね、おかげを頂いて行かなければいけないという事です。ね。昔から、貧すれば溝するというような事を申します。ね。けれども、信心させて頂いておればです、ね、貧すればするほど、ね、難儀が重なってくれば重なって来るほど、信心に拍車がかけられる。ね。そして、今まで味わった事のない有り難さというものが頂かれる。今まで、かつて通った事のない信心の有り難いところを通らせて頂くというのが、信心者の私は難儀に対する対処の仕方だと思うのです。ね。ですから、そういう例えば、私どもが憎い、可愛いとか、惜しいとか、欲しいとか、妬ましいとか。ね。言うならば、貧すれば溝するといったような心からです、私どもが解脱する為にも、お互いが本気での信心を一つなされなければいけんと思う。本気での信心の、いわば教えに取り組ませて頂かなければいけないと思う。そして、まあ、私の言うなら修行時代の事を思うて見るのでございます。あれだけ信心しておって、どうしてあんなに貧乏せんならんだろうかと。あれだけ信心されとってから、どうして次々と、ああ難儀な事が起こって来るであろうかという時には、自分の事を私は今日改めて思うて見た。ね。そして、自分ながら、本当に見事にあそこを通らせて頂いておったなという事を感じました。ね。どこに焦点が置かれておったら、ああいう事であっただろうか。ね。とにかく、私は、一生懸命なものがないの。ね。それが、様々な不順な心になり。ね、それがイライラの元になり。それが、(かせい?)が真っ暗になり。ね。それが、これが本当と分かっておっても、これが本当だという道を辿られないような結果になってしもうて、いよいよ、おかげの頂かれない状態になってしまう。ね。いよいよ御大祭も近づいて参りました。もう、いよいよ後、五日間ですよね。お互いが心を砕いて、どうして御大祭を神様にお喜び頂けるような御大祭にならせて頂こうかと。まあ、皆さんも祈っておられる事であろうと思うのでございますけれども。ね。その事に対しましてもです。ね。私は、一家中の者が(あえて?有り難い?)その心になっておらなければ出けないと思う。ね。主人は一生懸命だけれども、家内が一生懸命ではない。親は一生懸命でも、子供が一生懸命でない。ね。それでは、今日、私が申しますような有り難い営みの中からですね、いわゆる、教会という大きな一つの営みがですね、成されて行かない。そういう有り難い雰囲気の中に、一年の記念祭が仕えさせて頂きたい。ね。それにはね、私どもがいっちょ、この際、本気で限りなく美しゅうならせて頂いて。ね。私どもの心の中にです、ね、惜しい、欲しいを一つ、この大祭を向かってだけは、お互い捨てようじゃないですか。ね。憎い、可愛いだけは、いっちょ捨てようじゃないですか。もちろん、妬ましいなどとはいうようなものは、もちろんあっちゃなりません。ね。あの人が形の上で出来よんなさるなら、ね、自分は心で成したら良いのです。ね、体で成して行ったら良いのです。あの人の真似が出けなければならんという事はない。それぞれの持ち場、それぞれの立場で、私の方はこういう生き方で、今度の御大祭は奉仕させてもらうぞと。一軒一軒がその個性を十分に現して。ね。もう、一人ひとりがじゃなくてから、一軒ごとがですね、大きな力になって、それをぶつけて行くような信心をさせてもろうて、おかげを頂きたい。一人ひとりじゃない。ね。一家中、もうその点、有り難い事は、合楽はもう家庭が勢を揃えて信心をしておるという方達が中心である。また、それが、もうほとんどがなのであります。ね。信心に不同はありましても、ね、こと、だから神様という事になれば、一家中の者がその心にならせて頂けれるおかげを日頃から頂いておる訳でございますから。ね。それをいよいよ修行と思わせてもらい。ね。それを、いよいよ、ね、神様へ打ち向ける真心とさせて頂く工夫をさせて頂いて、おかげ頂いて行きたい。昨日でしたか、今ここで修行を致しております上野愛子さんがお届けするのです。先生、限りなく大きくならせて、限りなく豊に。ね。いよいよ限りなく、いよいよ大きくという言葉は何という素晴らしい御教えでしょうかと。私はその事を思いますとです、心の中にどういう例えば妬みがあり、憎みがあり、悲しみが、ね、例えばおかげの受けられない、いわゆる心が覚えて参りましても、その事を思いますと、心がすっきりして参ります。そして、私は例えば、結婚生活に一年間で破れた。幸せであろうはずの結婚生活が、言うならば不幸せに終わったかのように思いましたけれども、あの、不幸せであったと思うた結婚そのものすらがです、今、先生、考えますと、あれはおかげであったと感じております、と言うんです。ね。まあだ、傷の癒えない生々しいばかりの上野さんが。ね。本気で一生懸命、もうそりゃ、しばらくは、もうずうっと御広前に来てから、もう来ては座り、座っては祈りというような毎日を続けておりました。ね。思えば憎い事もある、歯痒い事もある。ね。もう、それこそありありと、その自分の目の前に、いわば憎たらしい人の顔が写ってくる。ね。そういうようなものがです、何時の間か何とはなしにです、日々信心修行を本気でさせて頂いておる内にです、もう、これは私一生一代のいわば大きな傷跡になるだろうという、その傷跡すらがです、傷跡どころではない、おかげでというものが生まれて参りました。あの人にもお礼を言いたい。ね。この人にもお詫びがしたい。そういう心が次々と起こって来る。先生、本当に豊にならせてもらうという事。いよいよ大きな心にならせて頂くという事は、何という素晴らしいお言葉でしょうかと、こう言う。上野さん、おかげ頂いたねえて。私もそうなん。私も、今年はもう、あの御教え一つにおすがりさせて頂いておるが。どんな場合、あっ、こここそ大きゅうならにゃならん時だと思うたですね。本当に豊なものがここから湧いて来る。ね。そこからおかげが確かに頂けて来る。信心のない人達が、ただ、大きな心になろう、豊な心になろう。ね。それではね、それはただ、自分が辛抱しておるだけなのだけれども。私どものバックには神様がござる。ね、その神様のお言葉なのだ。その神様のお心なのだ。その神様のお心を行じて行くのですから、次のおかげがおかげになって行かんはずがない。ただ、豊になろう、大きゅうなれ。まあ、辛抱しとかんのというだけじゃない。信心させて頂く者の、その神様に、そういう事を教えて下さった神様が後ろにバックである。ですから、神様の言う事を聞かせて頂くところから、自分の心が嫌がうえにも豊になる。てんや問題はある。ね。問題は限りなくある。これは、ずっこんという訳にはいかん、人間だから。けれどもですね、その事のおかげでという事はある。はあ、この事を忘れよう、この事を思うまいと言うても、やっぱりあるから、忘れも出来なければ、思い出しもするけど。思い出しもすると、何かが、こう込み上がって来るような腹立たしさを感ずる事もあるけれども。ね。けれども、その事のおかげでね、今日私がこのようなおかげを受けておるんだという事になって来る時にね、その思い出す事も、またおかげだという事になって来る。ね。そして、その事によって、いよいよ私の心が豊に大きゅうなれるという事になって来る。そこには、妬みもなからなければ、(   )もない。憎い、可愛いはもちろんない。憎い、可愛いというのは、あの、可愛らしいという事なん。ね。あの、例えば目の中に入れても痛くないというような可愛がり方をする人があるでしょう。これは、もう神心じゃないです。これは、もう人間心の一番つまらない心なんです。ね。ところが、私どもはやっぱりそんなもんもあるけれども、そこんところを実践して行く。そこんところを、出らない、こうバランスを取って行くような、私は修行がやっぱり必要だと、こう。嫌いな人を、いよいよ、こう大事にさせて頂くと。ね。もう、どんこんされんごと可愛かつは、もういい加減にしたというぐらいにですね、やはりそこにバランスを取って行く精進が必要である。ね。憎い、可愛いを取る。ね。もちろん、惜しい、欲しいは必ず問題の元。ね。本当に、あそこへんな、もう結構な事っじゃある。もう、あそこは息子さんの、もうとにかく働きが良いから、ああして贅沢が出来なさる。これは妬ましいの。だから、そういうようなものなんか、もう見えないようなです、もう自分の足元をギリギリ見つめさせて頂いておれば、そんな見えない。これは、私の修行中の時分を思うとそれである。ね。人じゃない、もう、自分自身をいかに間違いなく生き抜き、生きて行こうかという事だけに一生懸命なのだ。とても、教えを一生懸命取り組んどるのに、他所の物を見えるはずはなか。ね。それでいてから、こうやって、こう一般を眺めた時にです、なるほど、あそこも(儲けち?)ござる、あそこも贅沢して、ああしてやれて行きよんなさるが。本当に、あれがいつ、一本橋を渡りござるごたる気持ちで、それが見れれるようになる。はあ、ああいう生き方では、また私のような事に落ち込む破目な事になって来るがと、こう祈らずにおられないような事にすらなって来る。それが妬ましい、羨ましいのじゃない。ね。デパートの屋上から、それで眺めさせて頂いて、一軒一軒の中に、どのような営みがあっておるだろう。ね。神様のお喜び頂けれるような家庭がこれだけ沢山の中に何軒あるだろうか。お金があるから幸せそうにしておっても幸せじゃない。ね、それかと言うと、月の差し込むようなあばら家に住んでおっても、有り難い、勿体無いで行っておる人達すらもあろう。ね。そういう、例えばです、今日私は個人の助かりと言うよりもね、(家業?家族?)の助かり。ね、その家族の助かりがです、ね、その中にも、只今私が申しましたような内容をです、お互いが検討させて頂きながら、精進させてもらう。いよいよ豊に麗しゅうならせてもらう。いよいよ豊、いよいよ大きく、いよいよ豊におかげを頂いて行きたい。いや、そうならせて(          )心の貧しさが、心の小ささが、このくらいな問題でも、これに引っかかっておるのである。はあ、これは大きゅうならにゃと思うた途端に、何か(べすっと?)引っかかるようなものがある。それを神様のおかげと言う。ね。神様が、そこに気が付いてくれたかと、もう後ろにござる神様が、その都度つどに喜びを示して下さる。そこに信心のある者とない者の違いを感ずる。ね。仁徳天皇様は、一軒一軒の家から煙が立ち昇らない。それを大変、哀れに悲しく思われたと言うけれども。ね、なら、立ち始めるようになったからと言うて、その人間は幸せという事じゃない。私は、その一軒一軒のね、煙が立つ立たんは別として、ね、あの一軒一軒の中に、どのような営みがなされておるであろうかと思うと、どうかして、これはほんに、金光様の信心させて頂いて、このような有り難い生活が、営みが出けれるんだという事を示して行きたい。と言うて、宣伝して回るわけにはいかんのだから、銘々が、ね、一人一人一軒一軒が、そのような有り難いおかげを頂いて、それを周囲に及ぼして行くようなおかげをですね、願いとさせてもらわなきゃならん。そういう心の状態で、ね、今度の記念祭をお迎えさせて頂きたい。ね。ですから、先日もある人が、ね、(     )の御用をなさる。もう、それが、もう腹の立ってたまらんといような人があった。ね。だから、決してね、あの人がお米を一票お供えするけん、自分もさっちお米一票をお供えせにゃならんのじゃないて。ね。そういうお供え、そういうような御用で出来る御大祭じゃつまらん。ね。それをお米一票よりも、より有り難い、それに匹敵する、私は心が使われる、体が使われる。ね、そういう、私は銘々の漏り上がりがです、大祭のいわゆる有り難いものにならなければならない。でなからなければ、その記念祭を境に、次のおかげにならん。境、ね、その記念祭を境におかげを頂くという事になって来ない。ね。どうぞ、とりわけお互いの心を大事にする事はもちろんだけれども、家族中の信心を一つ本気で、ね、一つ大事にして下さい。そして、また行かにゃならんかと、例えば主人が家内に言われるような事のないように、これはもう、信心のない主人でも、ほら、もう今日はおまえ大祭ぞ。さあ、今日お前御用に行かんでよかかと言われるくらいなものをです、家庭の中で、信心のある者が作っとかにゃいかん、ちゃんと。ね。そういう、私はおかげの、だから、いよいよ麗しいお祭りが奉仕させて頂ける事が出けると思うのです。ね。どうぞ一つ皆さん、そこんところに焦点を置いて。同時に、今日、私が申しました、人間の事ですからですね、例えば今日の子供達がバスの中で感じたように。ね、よくよく考えて見ると、しかし、普通人間ならやっぱそげんあると思う。もっともだと、こう思う。自分方は何十年の教会であるのに、何人の少年少女会しか行っとらん。合楽は、もうたった一年しかならんとに、何10名の者が、しかも征服を皆着てから、そのどんどん乗り込んで行くなら、ちったモヤモヤもしよう、それが当たり前。けれども、これは人間が誰しもそういうものを持っておる事なんだ、当たり前だ。けれども、信心させて頂く者は、そういう心に取り組めち言う。ね。それが、徳が受けられない。ね。むしろ、そこんところが喜べれるような信心。それを神心と言う。そういう信心、そういう内容をね、改めた上にも改めて、おかげを頂き、御大祭に臨みたいと思うのでございます。どうぞ。